コラム記事・研究会レポート

何が健康を支えてくれるのか

2017/04/30
Holistic Health

何が健康を支えてくれるのか
「ホリスティック患者学」 講演要旨 2015年4月5日関東フォーラムより

講師:山本  忍
神之木クリニック院長/アントロポゾフィー認定医/NPO法人日本ホリスティック医学協会理事


まなざしの向け方

「病気をみる」のは〇〇医学、「健康をみる」のは△△医学。さて、この空欄には何が入るでしょう。全体(Whole)=健康(Health)というお話がありましたが、全体が健康であり、その一部が病気だとすると、その一部(=病気)をみるのが現代医学・西洋医学のまなざしの中心なのだろうと思います。
花粉症で鼻水が出ていたり、歯が痛かったりすれば、そのことだけで頭がいっぱいになってしまってそれが全体のような気がしてしまうものです。でも、よく考えてみれば、ご飯も食べられて歩いて出かけることもできて、たいしたことではないかもしれない。そして、鼻水が出たり歯が痛くなったりすることで、他のところが助かっているということもあります。一部もしっかり見つめ全体もみるまなざし、これがホリスティック医学の立場だと思います。

まなざしを意識してみてみると、様々なことに気づきます。国民の医療費は何兆円規模と言われますが、この大半は病気の対策に使われていて、健康に対する研究に計上される予算はそれと比べると非常に少ないのが現状です。
美味しい水や空気、運動、仲間との楽しい語らいなど、健康を支えてくれているであろうものを考えてみると、それほどお金がかからないものばかりですし、企業が開発しても利益が出ないものが多いだろうと思います。健康食品市場は膨大ですが、健康食品が本当に健康を支えるものであるかは、まなざしの向け方という点で、議論すべき余地があるでしょう。

健康生成論とコヒーレンス

何が健康を支えてくれるのか、ということを考えるのは、むしろ患者側の役割あるいは特権かもしれません。
まず、米国のユダヤ系医療社会学者であったアーロン・アントロノフスキーが提唱した健康生成論という概念を取り上げたいと思います。彼は、1970年代にナチス強制収容所から生還した人々の健康調査を行った際に、健康に生き抜き長生きした人たちがもつ、ある共通項を見付けました。それがセンス・オブ・コヒーレンス(SOC)です。コヒーレンスとは「首尾一貫性」と訳されることが多いのですが、SOCは「人間が自らと、自らの運命、自らが生きている時代や人々と強く結びついていると感じること」を意味します。
人間がSOCをもつには、“理解する”ことが大切で、理解すればするほどにアイデンティティーが強まるということが分かったのです。“自分自身を理解し、自分の社会環境を理解し、自分が生きている時代を把握できる”という「把握可能感」を得ることです。さらにアントノフスキーは理解だけではなく、自分が参加して“行いが加わることや、やればできるという達成感”つまり「処理可能感」と、それが“意味のあることだ”と感じる「有意味感」が不可欠だと述べています。

三分節:両極とその間にあるもの

ホリスティック医学を深めて行く過程で、私はアントロポゾフィー医学に出会い、今は中心的なものとなっています。アントロポゾフィー医学、シュタイナーの人智学は、あらゆるものを理解していく、認識していくための道具と言えます。
アントロポフィーの重要な叡智のひとつ、三分節(様々なものを3つの節で捉える)という概念を紹介したいと思います。まず、数字の意味を見ていくと、「1」は統一された世界、目に見えない隠れた世界を意味し、「2」はそこから分かれてできた2つの対極、目に見える世界を意味しています。「3」はその「1」と「2」両方の要素を持っています。例えば男性と女性という両極は「2」に相当しますが、その間にある「1」とは何でしょうか?
「子ども」という答がイメージできると思いますし、「中性」というより「神性」という言葉が相応しいと私は思います。

では、病気と健康の間にあるのは何でしょうか?
両者の間に、明確な分岐点が無く、互いに地続きであることにまずお気づきになるでしょう。両者の間にあるものは「時・熱」が一つの答だと私は考えました。何も食べずに長時間経過すれば少しずつ病的になります。逆に「時間薬」という表現があるように傷ついた心に時間が寄り添ってくれて、病気から健康の方に戻してくれます。
また子どもの頃はよく熱を出しますが、年齢を重ねると硬く冷たくなる病気が増えてきます。熱の分布・分量が病気と健康と大きく関わっています。時も熱も健康と病気の間で大事な役割を果たしているでしょう。

みる、きく、そして認識する

それでは、「みる(見、視、観、診、看)」と「きく(聞、聴、訊、利、効)」の間にあるものをみていきましょう。「目」と「耳」という器官の間にあるものは何かと問うと、「膜」というのが私の答です。
目や耳といった神経・感覚器官は外胚葉という膜が内側にくびれて形成されていきます。目や耳で外界を捉えることができるようになって内面が生まれ、感情が生まれます。膜は感覚器官の原形とも言えるものです。外界にあった食べものは小腸の膜を通して消化吸収され、内界へと入っていきます。認識とは、単に頭で理解しただけではなく、腑に落ちること、つまり小腸で消化し自分のものにしていくことです。
三分節によって両極をしっかりと見つめ、その間にあるものが見えてくると認識はより深めていくことができます。

心の目・耳でみる・きくために、実践可能な具体的行動をご紹介しましょう。
「目-手」「耳-足」という繋がりを感じられるでしょうか?
「手で触ってみる」「講演を聴きに足を運ぶ」という風に考えると関係性が感じられてくるでしょう。行動指針として、「目-手」の方は、「気付いたらすぐする」、「耳-足」の方は「足繁く通う」ということをあげたいと思います。
この2つの行動指針は、時と熱を自分の味方にする優れた方法です。母のお百度参りで子どもの病気が快方に向かった話を聞くことがありますが、例えば毎日同じ時間に、自分で決めたある樹のもとへ「足繁く通う」と、樹の声を聴くことができるようになります。みる・きく、そして認識することが、健康に繋がっていくのです。

ホリスティック患者学序章

患者の「患」や「串」という漢字は、二つのものが貫かれている様子を意味しています。一貫性の「貫」は穴あき銭1000枚を紐に通したという意味があり、習慣の「慣」は毎日心に決めて行うという意味で、「患」と「貫」は、語源的に共通の意味をもっています。
患者の立場から「ホリスティック患者学」という本を上梓するとすれば、中心にあるものをしっかりと認識した「首尾一貫性」をその序章に書き記したいと思います。