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さあ、大ホリスティック時代の幕開けだ

2017/09/24
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文・帯津 良一 (おびつりょういち)
帯津三敬病院名誉院長、帯津三敬塾クリニック主宰。

さあ、大ホリスティック時代の幕開けだ

医療の現場に“気負い”はない。医療とは患者さんを中心に、家族、友人、さまざまな医療者が作る“場”の営みである。当事者一人ひとりが、自らの内なる生命場のエネルギーを高めながら、他の当事者の生命場にも思いを遣り、これをサポートする。
こうして当事者一人ひとりの内なる生命場が高まると、共有する医療という場のエネルギーが高まる。するとそれにつられて個々の生命場が高まり、すると、また共有する場が……・というように好循環が起こって来る。

さらに、戦争にたとえれば、医療が最前線なら、医学は最前線の必要に応じて武器弾薬や食糧などを届ける兵站部(ロジスティックス)である。医学は性能のすぐれた戦術を数多く備えることを要求されるが、最前線を制するものは戦略である。いくつかの戦術を統合して戦略に止揚するのである。
具体的には、治しと癒しの統合の上に、医療者と患者の関係性の効果が加わったものが戦略である。(『思想としての「医学概論」』、高草木光一編、岩波書店、2013年)
治しとは物理化学的な効果で、西洋医学がこれを担当する。
癒しとは自然治癒力による効果で、代替療法がこれを担当する。
しかも統合とは足し算ではなく積分すること。積分とは双方を一旦解体したものを集めなおして、まったく新しい体系を築くこと。並大抵のことではない。
治しと癒しが心を1つにして初めて成就されるものであって、少なくとも双方が足を引っ張り合っている暇はない。

そして何よりも関係性の効果が大事である。自らの生きるかなしみをいつくしみ、相手の生きるかなしみを敬って、そっと寄り添い合えばよいのである。決して難しいことではない。
このことに心底気がつけばよいのである。

小ホリスティックから、大ホリスティックへ

顧みるに、どうやら私のやって来たことは小ホリスティック医学であったようだ。小と大とどこが違うか。この点を仏教の唯識(ゆいしき)学説と、場の階層から明らかにしたい。
まず唯識では人間の心を八層に分ける。眼耳鼻舌身の五識は五官の世界。形ある個物の世界である。
第六識の意識に至って、こころといのちが加わって初めて、“場”の登場である。場の医学としてのホリスティック医学の萌芽がここにある。
そして第七識の末那識(まなしき)は、あくまでも自己に執着する免疫学の世界。免疫が場の営みであることはすでに多田富雄先生が説き明かしている。
ここで個物から場への移行がほぼ完了する。つまり、第一識から第七識までを対象とするのが小ホリスティック医学ということになる。

次いで第八識の阿頼耶識(あらやしき)は、人間存在の根底をなす意識の世界。
末那識が免疫力なら、ここは差詰め自然治癒力ということになる。ここをしっかりと掌握して初めて大ホリスティック医学になるのではないだろうか。
そして場の階層がある。私たちの体内に目を向けると、臓器の場、組織の場、細胞の場、遺伝子の場、分子の場、原子の場、素粒子の場と大から小へ場が階層を成している。

一方、環境の場に目を向けると、家庭、学校、職場といった日常生活の場、地域社会の場、自然界の場、国家の場、地球の場、宇宙の場とこちらも小から大へと場が階層を成している。最後は虚空(こくう)の場である。
そして、ここには上の階層は下の階層を超えて含むという原理がはたらいている。つまり上の階層は下の階層の性質をすべて持ち合わせた上に、さらに加えて新しい性質を持っている。
だから下の階層で得られた研究成果を上の階層に当てようとすると無理が生じることがあるという。
人間という階層に生まれたがんに対しては人間という階層に築かれたホリスティック医学を当てなければならないということになる。

「全体というものは現実化されたかたちでとらえられるものではなく、関係性の無限の拡がりである」と言う西田幾多郎の言に従えば、人間という階層以下に注目するのが小ホリスティック医学、虚空までの全階層に注目するのが大ホリスティック医学ということになる。

あの世とこの世をひとまとめ

あの世とこの世をまとめてこその大ホリスティック医学である。まとめるのは夏目漱石がいう“理想の大道を行き尽して、途上に斃(たお)るる刹那に、わが過去を一瞥のうちに縮め得て初めて合点が行くのである”の合点である。
この合点に多少の不安を禁じ得ない向きにはこの世での生と死の統合をすすめたい。